石巻ダッシュ隊員 りこ の日記から
岡山県岡山市からダッシュ!!★いち★
ぽぽぽぽ〜ん、と東北へ☆*. 2011年04月29日23:54
いきなりですが...
明日から東北行ってきまぁす★!
人いっぱいで今はボランティアいいっち言われて断られたとこから電話あって、急遽行くことになりましたp(*>v<*)q"
予定ずらして6月に行くつもりにしとったのにd(゜ω・)p
急遽すぎたw
マッハで買い物行ってバタバタな一日やったw
寝袋ゲッツ!
そして想定内やったけどヒートテックはもぅ売ってなかったΣ(o∀O)
誰か貸してくれ!笑
ほたか〜!!!
東北はまだ寒かったかぁ!?
寝袋っちむっちゃ暖かいんだね!
初めて入ったが、
驚きの快適さw
ハハはお気に召しすぎた様で今日ベランダで寝袋の中睡眠をするそうだ..(`・ω・´)
まだまだ準備終わりませんw
場所は宮城県石巻市!
4月30日〜5月5日まで
こんな形で初東北なのは
複雑な心境やし..
急遽すぎて
心の準備できてないけど..
ま、決まったもんは
やるっきゃない\^o^/
SSSパーカー
学年Tシャツ
全代Tシャツ
ISA岡山支部パーカー
着てみんなの想いの分も頑張ってきます★笑
GWだし、いっ-ぱい先輩帰って来て一緒に飲みたかったんですが..
また夏休み帰って来た時に相手して下さい(*^艸^*)
で、なんで日記書いたかっち言うと
電波状態があんましよくないみたいなんで
5日まで連絡つかんかも-
っち言っときたかったからです★笑*
それだけですw
前置き長かった!?笑*
と、いうことでアウトレット行けんくなったぁぁぁあ!!!!!
めい、もえ、みく...
ぎょめん(T∀T)
りこのワンピース買ってきて★!笑
帰って来たらちゃんと「講習会」開くけん♪*.笑
たっきーが
「近々またデカイ地震くるらしいけがちで気をつけりぃよ!!!」
っち言っとったけど..
万が一..
億が一そういうことになっても
我が人生悔いなし!!
なので(=∀=)OK
毎日
明日死んでもいいや
っち思って生きてるんで
気にしないでね笑*
幸せなヤツですねw
そうですね..
わたくし毎日幸せすぎます\^o^/
そんな幸せな毎日が明日も来ると信じてたのに
いきなり状況の変わってしまった
東北、一部関東の人たち..
今、会いに行きますッ!!
微力ながら助太刀いたしますッ!!
また、岡山帰って来たら
みんな飲みましょ〜(`∇´ゞ
いってまいる☆
すまいるすまいる♪*.
宮城県石巻市へダッシュ!!★に★
こんにちは★
ボランティア行ってくる!っち日記書いたっきり音沙汰なくてすいません!!
帰ってきて即効滋賀に田植えしに行ったり、卒業試験の勉強したり、仮免の卒検あったり、嘔吐下痢ちっくなのになったり(なう!)と忙しくしてました。
加えて、どんな書き方したらいいか悩んでました。
りこは石巻に行ったことで、メディアの情報ってなんなんだろうっち益々強く感じるようになりました。
そしてボランティアに行ったりこも、日記を書くことで、みんなの受け止め方や感じ方に影響するだろうということを理解しています。
だから、どんな書き方をしたらいいか悩んでいました。
だけどやっぱり…
<全体に公開>で書きたいけど、どりあえずは、りこの感情移入バリバリの日記を書かせてください!笑
また後日編集して<全体に公開>したいですね。
とりあえずマイミク326人とその友達の方へ向けて書こうと思います。
これから書くことは、あくまで私の視点であること、
本当のことじゃないかもしれないこと、
これが全てじゃないってこと、
念頭に置いて読んでください。
長いですよ!笑
覚悟して読んでください!
*****
4月の29日、
「キャンセルが出ました。ボランティアに参加しますか?!」
と電話一本。
心の準備もできてないままに一つ返事で準備開始。
30日PM6時には香川県高松市の小学校前でたくさんの人に囲まれて集合していました。
私はもっとたくさん学生がいるんじゃないかと思ってましたが、女子はおろか、学生っぽい人はほとんどいませんでした。
最近は女性の方が元気だと世の中でも言われているし、実際に私の周りでも女性の方が活発に動いています。
だから集合前「女の子ばかりだったらどうしよう。もしそうだったら日本まじ終わりだわ〜」とか考えてました。笑
だけど45名の参加者の中で女性は10名だと聞いて、なんだか安心したのを覚えています。
集合場所に続々と集まる人たち、その人を見送りに来た妻、子供、親、恋人、友達、後援隊の方々…
みんな色々な環境の中から飛び出してきたんだなって。
そして今、一つの目的のために同じ世界に飛び込んできたんだ。って思うと胸に熱いものがこみ上げてきました。
バスにはこれでもかっというほどの荷物が載り、通路にも上の荷物棚にも溢れかえりました。
だけど文句を言う人など一人もおらず、バスの前に「石巻ダッシュ!」の垂れ幕を掲げて、皆いい顔で笑いながら出発!
私も香川まで送ってくれた両親に手を振りました。
しばらく走ると玄米お結びが配られました。
これは後援隊の方々が握ってくれたお結びだそうです。
本当に美味しくて「気」が入っているのを感じました。
行きたくても様々な事情でボランティアに行けない人がいる。
だけど、何か協力したくてこうして支えてくれる人たちがいる。
そうやってこの石巻ダッシュ!!は実現したんだ。
と実感しました。
この石巻ダッシュを引っ張ってくれているのは
松見歯科の院長先生とその妻たまさん。
特にたまさんは、この旅のキーパーソンです。
バスの中では終始アナウンスをしてくれ、皆の健康を気遣い、しっかりしてるかと思いきや時々見せる天然で皆を和ませてくれます。
一方院長は、いつもニコニコしていてお酒大好きなムードメーカー。
バスの中でも即効居酒屋を始め、初めて顔を合わせた仲間たちを「飲みにケーション」ですぐに仲良くさせてしまいました。
このお酒、バスの中に始まり、ボランティア中も毎晩みんなで酒盛り、帰りのバスでももちろん飲んでました。
最初は思いました。
「不謹慎じゃないのか。何しに行ってるのか。」
だけど、帰る頃には考えが変わりました。
まぁその話は後ほど。
次に止まったのは徳島。8人新たに乗ってきました。
お見送りの人たちが雨の中旗を振って私たちを送りだしてくれました。
この人たちにも、色々な想いがあるんだろうな、と勝手に妄想して熱くなってました。笑
淡路SAにて休憩
明石大橋がライトアップされていてとてもキレイでした。
その橋を見ながら
「なぜ私はボランティアに行きたいのか」
考えました。
助けに行きたいから?
興味があるから?
どれもしっくりくる答えが見つかりません。
きっと向こうで答えが出るはず、そう思って再びバスに乗り込みます。
22:30ごろ吹田SAへ。
ここでようやく私の隣に人が座ります。
彼女はなっち★おない歳です!!嬉
やっと話し相手ができたのが嬉しくて24時近くまで彼女の話を聞きまくりました。笑
体育の先生をしてること、ゼミ旅行のこと、家族のこと、バイト先のこと…たくさん話をしました。
なっちは、これからの5日間、私の隣で常に笑い、話し相手になり、盛り上げてくれる大切な仲間になります。
最後に多賀SAにて一人拾い「石巻ダッシュ!!」メンバー45人+素敵な運転手さん2人の全47人がそろいました。
5月1日
朝起きると山形。
参加者に女性がいること若い人がいることに、放射線の心配をしたたまさんが、急遽ルートを変え、福島を避けて日本海側を回って宮城を目指すことにしてくれたのです。
この旅の中でたまさんや院長に何度も放射能から私たちを守る気使いを感じますが、これが(私が感じた)最初の気使いでした。
山形は桜が満開で、少し前に終わったお花見シーズンが再び訪れているかのような不思議な感覚の中、朝ご飯を食べました。
かと思いきや、ひと山越えると途端に雪道。
季節が行ったり来たりしてる中、バス内では自己紹介が始まりました。
45人の名前を覚えるのは全然無理でしたが、74歳のおじいちゃんが参加してること、長崎や福岡から来た人がいること、三重からチャリ旅行しててたまたま参加した人がいること、震災で入れ歯をなくした人の入れ歯を作りたいと言って来た人…
本当に昨日まで交るはずのなかった45人の人生が、今一本に交わっていることが奇跡のように感じました。
今回歯科医院さんが主催ということで、A班は歯科班となり、現地で歯医者さんとして活躍します。
手に職があるということ。
本当に大切だな、と実感した今回の震災。
美容師でも、マッサージ師でも、大工さんでも、お医者さんでも、歯科医さんでも、なんでも
手に職があること。
なにかを極めて専門としていること。
やっぱり最終的に、そういう人たちが必要なんだって、強く強く感じました。
石巻市に入る前から右側が気になって気になってしょうがありませんでした。
ぼやけて見える景色の向こう側に、テレビで見たような悲惨な世界が広がってるのかと思うと、いつその風景が目の前に広がるのかドキドキしていました。
高速を降りて石巻市に入った。
最初は、機能しているショッピングモールや、ファミリーレストラン、コンビニエンスストアに拍子抜けしてました。
だけど、走るにつれて道路が茶色く汚れ、立ち並ぶ家やお店に明らかにおかしな茶色い一定の線があり、ごみ山が増え…
橋を越えるとそこは、なんとも形容しがたい世界が待っていました。
家のあった場所に家はなく、鉄筋は折れ曲がり、機能しなくなった信号の下で誘導する警察の方、陸橋に貼られた「頑張ろう石巻」の垂れ幕、灌水した道路…
避難場所となっている石巻湊小学校のすぐ横にバスは止まり、そこが「め組JAPAN」の活動拠点だと知りました。
降りた時に一番最初に感じたのは
「魚臭い」
ということ。
魚の腐ったような匂いがあたり一面に広がり、私はテレビで見た灌水状態の住宅地を思い出しました。
満潮になると道路に水が溢れ、魚が泳ぐ。
そんな一見ポニョの世界のような出来事をテレビで見て、「すげー!!」と純粋にワクワクして見た過去の自分を殺してやりたくなりました。
魚臭いと感じたのはこの最初の日だけ。
これは鼻が慣れてしまったせいなのかもしれません。
め組JAPANの方から説明を受け、私たちは全員で小学校横の御寺を目指しました。
湊小学校は、被災地のど真ん中にありました。
学校のプールには未だにワゴン車が浮いていて、小学校から一歩外に出れば灌水して変わり果てた街があって…
私はもっと、高台や被害をうけていないところで生活してるものだとばかり思っていたので、これはなかなか衝撃でした。
そして小学校の窓からは、たくさんの洗濯物が見え、こんなに生活感溢れる学校は初めて見ました。
こんな狭い空間だけで生活するなんて、いったいどんな精神状態なんだろうと、辛くなりました。
お寺に着くと、まずは内部のお掃除です。
******
長くなったし、とりあえず一度切りますかw
2に続きます!
頑張って読んでますか?!
まだまだ頑張ってくださいね?
一日目もまだ終わってないんでw
石巻ダッシュ隊員の日記から3
さて皆さん、1をしっかり読みましたか?!
まだまだ書きますよ〜笑
私が石巻から帰ってから体験談をしようとした時
「あ〜ダメ!聞きたくない!」
と話を聞いてくれなかった人がいます。
その時、
「まぁそういう人もいるか。そういう人には、聞いてもらわなくてもいっか。」
と思いました。
だけど今、やっぱり日本人として、ちゃんと聞いて欲しいなって思うんです。
だからみんなも、最後までお付き合いください♪
私も行った者として最後まできちんと伝えたいと思います!
宮城県石巻市へダッシュ!!★に★
では、つづきをどうぞ★
*********
私たちが今回石巻へ行ったのは「泥かき」をすることが目的でした。
津波に乗って来たヘドロや土が家に入り込みすべてを飲みこみました。
そして床を覆い、ひどい匂いや惨状を作りだしました。
私たちダッシュ隊員は、その泥をかき出し、再びその建物で生活できるよう協力すべくやってきたのです。
18時間かけて到着して早々に活動したのはお寺でした。
そこは以前にボランティアが入ったようで、一通りの泥かきが終わった状態でした。
なので、私たちは乾いた土間をほうきではいて、井戸水をかけてブラシでこすり、雑巾がけをしました。
水はまだ通っていないようで、井戸から水をくみ上げて作業にあてていましたが、その井戸水も地震の影響で泥色をしていました。
そんな泥混じりの水をかけて掃除したところで、また乾けば白く砂が浮きあがってくるのだろうと容易に推測できます。
だけど、今できること。
それがこれなら、私たちは全力でやるだけなのです。
そして一通り作業が終わってから、お寺の目の前に広がる御墓の掃除を始めました。
お墓にはいくつもの車が乗り上げ、生涯こんな光景を目の当たりにすることはないだろうという衝撃的な景色がありました。
あまりに現実離れしたその風景の中で、私は実感がちっとも湧きませんでした。
たくさんの墓石が転がり、泥に埋まっていました。
私はその中の一つ「●●家」の墓石を掃除しました。
お墓の周りの泥をスコップで丁寧に取り、土のう袋に詰め、井戸水で墓石に雑巾がけをし、地震で落ちて割れてしまったであろう水差しやコップを丁寧に洗って元の位置に戻しました。
お墓の泥をかき出している時、ヘドロや油がたくさん層を成しているのを見ました。
復興には大変な時間と労力がいることを強く感じた瞬間でした。
作業途中に何枚も写真が出てきました。
ヘドロにまじって汚れてしまった写真をバケツの水に浸してこすると、写真の風景が一緒に消えてしまいました。
泣きたくなった。
泥に混じった写真なんてキレイにしたことないから、対処の仕方がわからず、誰かの大切な想いでの一部をこすり消してしまったんです。
「ごめんなさい」
と心の中でつぶやきながら、テーブルを囲んだ家族の笑顔を見て
「どうか、この人たちが生きていますように」
と強く強く願いました。
お墓を掃除している間に何組かの家族がお墓の掃除にやってきました。
ここに来る前、私は思っていました。
「頑張れ!負けんな!元気出せ!東北ー!!!」
って。
だけど、いざ被災者に会うと、そんな言葉言えるもんじゃなかったです。
「こんにちは」「お疲れ様です」
他の言葉のかけ方がわかりませんでした。
御墓掃除に来たご家族の方が倒れた墓石を見てため息をついていたので
「起こすのを手伝いましょうか?」
と聞きました。
すると
「いえ、また地震が来て倒れるかもしれないからこのままで」
と悲しそうに笑いました。
とりあえずスコップとバケツ一杯のお水を渡しました。
それ以外、何もできませんでした。
一方もう一つの家族は墓石を立てるのを手伝って欲しいと申し出て来ました。
重すぎる墓石は到底私の手に負えず、男性を呼んで手伝ってもらいました。
地震が来て、もう一度この墓石が倒れてしまっても、何度でも何度でも立て直しに来るからね!
と、自分の力では持ち上げられなかった私が、えらそうに心の中で思ったことは内緒です。
ボランティアは3時半までしか活動ができないということで、私たちはお寺を引き上げることになりました。
最後に●●家のお墓に手を合わせて、
「ご家族の皆様が、元気にお参りに来ますように。」
と願ってお別れです。
お寺さんの奥さんは最初から最後までとっても腰の低い方で、最後は涙目でお礼をおっしゃって下さいました。
そんなに腰を低くされなくてもいいのに、と辛くなりました。
だけどやっぱり、かける言葉は見つからず、
「お疲れ様でした。」
とありきたりな言葉でお別れしました。
作業を終えて専修大学へ向かいました。
専修大学は大学をお休みにして、ボランティアの方々に場所を提供してくださっていました。
なので、専修大学が実質ボランティアセンターの運営拠点となり、大学のグランドにたくさんのボランティアたちがテントを張って活動拠点としていました。
周りには多くの車が止まり、そのナンバープレートを見て、また胸が熱くなりました。
南は九州から北は北海道まで、本当に全国各地からかけつけたボランティアたち。
日本はまだまだ捨てたもんじゃない。
近くには自衛隊もテントを張っていて、今回自衛隊のすごさ、ありがたさ、本当に心から感じました。
私たちはそこでめ組さんと合流して、そこから一時間半ほど離れた山のゴルフ場まで行きました。
その駐車場が今回の私たちの生活拠点となります。
自分たちでテントを張る心構えでいたのですが、すでにめ組さんのほうで張ってくださていて本当にありがたかったです。
中には畳まで敷いていてくれて、寒さ覚悟だったのですが、これでずいぶんと変わります。
そして夜ごはんの準備開始です。
今日のご飯はトン汁、玄米ご飯、おかずもろもろ(笑)です。
ご飯の準備をする時、またまた後援隊の方々の優しさに触れました。
すでに調理しやすいようにカットされている野菜。
メッセージ付きのお味噌やおかずのタッパー。
事前の準備、本当にありがとうございます!!
とっても温かくて嬉しかったです!!
そしてここでも放射能の心配をした、たまさんの優しさレシピがさく裂。
玄米やワカメなど、放射能に効くと言われた食材をふんだんに使って下さいました。
トン汁にワカメって…笑
と思いましたが、そんな優しさが裏にあるなら全然有りですよ!!笑
このたまさん、結構有名な方らしく、歯から健康を考える、といった講演や料理教室を開いているそうで、全国各地を飛び回る素敵ママなのです。
料理はハリセンボンのはるなにそっくりな(笑)さっちゃんが仕切ります!笑
あーでもない、こーでもないとトン汁に命かける勢いで作ってくれました。
ご飯は圧力鍋で炊きます。
私は圧力なべでご飯を炊くのは初めてだったので興味津津。
たまさんの息子のたくしが仕切ってくれます。
私はこの旅で圧力なべでご飯が炊けるようになりました!(えっへん笑)
雨の中のお料理教室は終了してみんなでご飯です。
皆、ここに来ればご飯なんてなんでもいい。むしろ食べれなくたっていいくらいだ!という気持ちでした。
だけど、たまさんは違いました。
ちゃんとしたご飯で元気にボランティア活動させてあげたい。
放射能にやられないように玄米やわかめなど食べさせなきゃ。
そんな風にこれから3日間ずっと、三食私たちをお腹いっぱいにさせ続けてくれます。
ありがたいことです。
本当に私たちは恵まれたボランティア活動をさせていただきました。
そしてご飯後は、テントの下で伸さん、しーちゃん、たまさん、なっち等々とお菓子をつまみ、お茶しながらダべリング。
とても不思議な感じでした。
しとしとと雨が降る中、土木の人、建築の人、鉄鋼の人…いろんな職種の人、いろんな年齢の人、いろんな県の人、そんな人たちが一つテントの下で語っている。
これが縁で、これが絆なのかな。
せっかく会えた45人のこと、これから帰るまでにもっともっと知りたいと思った楽しい夜でした。
**********
はい、休憩〜
読むの疲れて来ましたか?!
でもでも次が私の中では本番なので、ぜひぜひ気合入れて読み続けてください!笑
一つずつコメント残すのはしんどいと思うけ、読んだ人、読んだ証に「イイね!」してください^^
ではまた★さん★で〜
******
寝袋での快適睡眠から5時間半…
たくしに「ご飯の準備手伝ってくださーい」と起こされました。笑
早朝の山の寒いこと。
なんたって朝五時過ぎですからね。笑
気圧の関係でご飯を炊くのに一時間半かかりました。
色々勉強になります。
この日はとても風が強く、火がぶれるので男子テントで炊き出しをさせてもらうことになりました。
男子テントは、合宿場のような感じで隙間風も半端なく、寒かっただろうなぁと思いました。
朝ごはんをモリモリ食べて、昼食を受け取りいざ出発です。
昨日は暗闇の中やってきたのでわからなかったけど、山を降りてすぐに広がる田園地帯の電柱が、左右に不自然に倒れ、電線がブラブラしているのが見えました。
津波の影響がなくても、地震の影響がすさまじかったことを物語っています。
本来ならこの地震だけでも大問題だったはずなのに、今津波で破壊的な状態にある場所だけにスポットライトが当てられ、おまけに原発が問題になり、地震の被害にあった多くの人が投げ出されている現状を、忘れていることに気が付きました。
昨日と同じ集合場所で班ごとに分かれ、今日の活動場所を指示されます。
この指示をしてくださるめ組JAPANのスタッフ。
事前に各家庭を回り、要望用紙に何人必要か、いつ泥かきに来てほしいか、一軒一軒回って聞いてくれたんだそうです。
そうして集まった要望を叶えるべく、私たちが派遣されます。
足を棒にしてやってくれた調査、こうやってボランティアのベースを作ってくれたスタッフの皆さんに本当に感謝です。
そしてこの日は私たちG班の他にH,I班と合同、つまり15人で○○さんのお宅へ向かいました。
スコップや土のう袋を載せた三輪車を押しながら、灌水した道を行きます。
大破した家や、道にあがった船の横を通り過ぎ着いたおうちは、とても立派な日本家屋でした。
道路から玄関までの道は泥に覆われ、家の中もしっちゃかめっちゃか。
最初に家の主人のおじいちゃんが出てきて一言二言指示をくれました。
とっても怖そうなお顔で、無愛想で、第一印象はもう「怖い」の一言でした。
とりあえず室内の物を出して欲しいということで、玄関までの泥道をスコップでかきあげ、すべて土のう袋に入れる作業から始めました。
泥は結構簡単に取れるのですが、それを袋に入れる作業の大変さ。
ヘドロの重いこと、重いこと。
皆無言でひたすら泥をかいては袋に入れ、それを三輪車に積んで置き場まで運ぶという作業を繰り返しました。
やはり15人でやれば作業が早い!!
みるみる内にキレイになっていく道を見て、皆も益々頑張ります。
午前中に一通り道が開けたので今度は室内の家具を運び出します。
最初に引っ張り出したのは、畳。
こいつがマジで…本当にむちゃくちゃ重いんです。
水や泥をありったけ吸った畳を10枚以上…
30メートルほど先の駐車場まで出すのです。
(実際はもっと近かったかも。だけど本当に遠く感じました。)
腕というよりは、持っている指先がジンジンしてちぎれるわ!!ってくらいに痛かったです。
私は2枚ほどしか貢献できなかったのですが、残りは男性陣が全て運び出してくれました。
力仕事となった時、本当に役に立てないな…と残念に思いました。
ま、できないこを数えるよりもできることを見つけて動けばいいや!とポジティブな私は玄関の掃除を始めました。
泥が詰まって開かなかった玄関をもくもくと片づけます。
家の顔である玄関がキレイになれば、だいぶ気持ちが軽くなるんじゃないかと考えたからです。
私が玄関を掃除している間に、男性陣によって畳、家具が一階の居間であったと思われる場所からすべて撤去されました。
そこから泥かき開始です。
泥の中からおもちゃや手紙などいっぱい出てきます。
その度におじいちゃんに
「これはどうしますか?」
と聞くのですが、強面のおじいちゃんに聞くのはなかなか勇気が要りました。
そのたびに「いらない」「いる」と簡単な返事しかしないおじいちゃんに、現場の雰囲気も重たくなります。
居間の片づけが一通り終わったころにお昼ごはんにすることになりました。
庭の一角を借りて私たちは持たされたお弁当を美味しく頂きました。
玄米のお結びにさば缶にバナナ2本。お菓子も。
さば缶は生まれて初めて食べたんですけど、こんなに美味しいものだなんて知りませんでした。
ここに来なければ、生涯さば缶の美味しさを知ることもなかったかもしれませんね。笑
食事中も15人の会話が盛り上がることがなく、どんよりとした空気です。
男性陣が仲良くなるのには時間がかかりそう。
なっちと「楽しそうに作業をしていいかわからないよね」と話をしました。
私は実際作業中、どんどんキレイになるし、人の役に立ってるし、仲間となにかを一緒にやるということが非常に好きな人間なので、とっても楽しかったのです。
ただ、その気持ちを表に出すことが被災者であるおじいちゃん、おばあちゃんを傷つけない保障がなかったので、楽しげに作業することができませんでした。
けど、一緒に暗い顔して黙ってサクサク作業するっていうのもどうなんだろうって…
どっちがよかったのか、帰ってきた今でもわかりません。
ご飯が終わってから作業再開!
私となっちと和田さんで玄関をキレイにし終えました。
泥で覆われていて閉まらなかった玄関が閉まり、
泥の下から出てきた綺麗なレンガ色の玄関にちょっと嬉しくなりました。
泥の中にはたくさんのガラスが散っていて、分けるのに苦労しましたが、とりあえず玄関としての顔を再び見せ始めてよかった、と自己満足しました。
居間の方も片付いたようで、次に台所です。
台所は本当に惨状でした。
冷蔵庫や食器棚が倒れ、ヘドロがひどい匂いを放ち、見るからに「惨状」でした。
とりあえずは物を運び出そうということで、冷蔵庫やテーブルなどを外へ出しました。
冷蔵庫を運んだ人が
「ちょっと開けて見たとき、本当にドキっとした。」
と言っていました。
一か月以上も放置されていた冷蔵庫です。
それを物語ったものとなっていたことでしょう。
その後使えそうな食器を居間までリレーで運び出しました。
ここは人の集まる家なんだろうな。
と思わせるほどの食器の数。
地震の影響をあまり受けることなくほとんど割れずに残っているお皿。
立派な食器が多く、「いいものなんだろうな〜」と推測してました。
このリレーのスタート地点を担った私は次の日腰の筋肉痛に悩まされます。笑
台所があらかた綺麗になったので休憩することになりました。
このとき初めて、おばあちゃんと話をすることができました。
作業中ずっと考えていました。
「この家の人は全員無事だったのだろうか」
まぁそんなこと聞けるわけもなく、作業に没頭してたんですが。
休憩中おばあちゃんにキャラメルをあげました。
「よかったらどうぞ」
そういって差し出すと、おばあちゃんは目を細めて笑い、申し訳なさそうに
「どうぞだなんて、本当は私たちから何か出さなきゃいけないのに…。ごめんなさいね、何もなくて、今朝早くに仙台を出たから、お店も何も開いてなくて、何も買ってこれなかったの。」
とおっしゃいました。
何もいらないのに、私たちが好きでやってるんだから気にしなくていいのに、と胸がいっぱいになりました。
そこからおばあちゃんは、地震のあった当日の話をポツリポツリと始めました。
********
一気に書きたかったけど長くなっちゃったので次にまわします!笑
あまりの文章力のなさに読み飽きて来たころかと思いますが、勘弁して頑張って読んでください><笑
イイね!の数がどんどん増えること、祈ります。
ではまた★よん★で!
石巻ダッシュ隊員の日記から5
眠たい時間となって来ましたね。
ええ、わたくしも一応病みあがりなのでねw
一日中寝てたと言えども眠いです。笑
けど、書けるとき書けるところまで、ね。
頑張っていきましょう!!笑
********
ポツリポツリと話し始めた震災当日の話に、私は胸が痛くなりました。
地震の起こった時、おばあちゃんは家に一人でいたそうです。
大きな地震にびっくりして家を飛び出し、おさまるまで家の前で座り込んでいました。
次々と落ちてくる瓦の恐ろしさ。
お隣さんから子供とお母さんが飛び出してきて、おばあちゃんと一緒におろおろしていました。
おじいちゃんはその頃、近くのお寺にいて、家にはいませんでした。
一旦地震がおさまった時、急いで戻ってきたおじいちゃんの運転でおばあちゃん達は家を出ました。
だけどすぐに交通渋滞につかまり、車はストップ。
みんなが右に曲がろうと列をなしている中、おじいちゃんは咄嗟の判断で左から大周りで行くことを選択しました。
この選択が生死を分けました。
しばらく走った後、車から降り、高台に上ろうと後ろを振り返りました。
すると、後方から次々と車を飲みこみながらこちらに向かってくる津波が見えたそうです。
そこから高台まで必死に走り、九死に一生を経た二人。
だけど、そこから10時間以上動けない時間が続きます。
何度も押し寄せては引く津波。
火の手のあがる町。
それらをひたすら眺めていたそうです。
津波の勢いがおさまり、ようやく町に静けさが戻ったころ、おばあちゃん達は町の避難所である湊小学校を目指します。
だけど、足元は泥だらけヘドロまみれ。
お墓の主たちに「ごめんなさいね」と言いながら、墓石を足場に避難所まで必死に行ったそうです。
だけど、たどり着いたところで、そこは避難所として機能しておらず、食べ物はおろか、毛布すら一枚も支給されなかったのです。
そこから三日三晩、食べ物も飲み物も一切なく、辛い時間がゆっくりと過ぎていきました。
「これのどこが避難所なんだ!」と憤りを感じずにはいられなかった。と
その間、教室内でしゃべる者は誰一人としておらず、3日間の間に凍死する方もおられたそうです。
三日が過ぎたころ、そのおばあちゃんの娘が仙台から車で駆けつけました。
道なき道をひたすら走って、迎えに来てくれたそうです。
だからおばあちゃんたちはそのまま仙台に避難することができました。
おじいちゃんは心労で、そこから2週間入院してしまったそうです。
あの時、渋滞で止まってしまった車の人たちはみんな亡くなった。
お隣の方も、前の家の方もみんな家族を亡くした。
そんなまるで映画のワンシーンのような話を、朗らかに話してくださいました。
聞いた時、私は何も言えませんでした。
うんうん、と黙って聞いていることしかできませんでした。
それが精一杯でした。
おばあちゃんは明るく話してくれたけど、心の中はわかりません。
それから、震災から価値観が変わったともおっしゃっていました。
前にも記述したように、この家は立派で、家具も食器も皆よい物なのだろうな、と推測できるものばかりです。
おばあちゃんは言いました。
前はケチケチせんで、イイものを買ったらいい。って思っていたけど、高価なもんなんて何もいらない。住めたらいい。食べれたらいい。使えたらいい。生きてたらいい。そう思うようになった、と。
人間の原点を見たような気がしました。
その後もおばあちゃんは、おじいちゃんが空手の師範をボランティアでしていること、この家が親戚が集まる家だったこと、自営業してたこと、家族のこと等々せきを切ったように話して下さいました。
そしてもう一度津波が来たら、もう生きてても死んでるようなもんだ、ともらしました。
きっとそれは本音なんだろうな。
私たちがおばあちゃんとお話している間に、仲間たちが家の片づけをあらかた終えてくれていました。
そして私も最終確認に家の中を徘徊していると、おばあちゃんが嬉しそうに話しかけてきました。
「見て見て。時計が二本無事だったの。」と。
それは何十年もおばあちゃんが大切に使っていた腕時計だそうで、たまたま台所の変な位置に置きっぱなしにしていたことで浸水せずに動いていました。
「みんなが台所の物を片づけてくれなかったら、見つけられなかったわ。ありがとう。この時計が見つかったことが今日一番嬉しい!」
そう言って本当に嬉しそうに腕時計を握りしめていました。
私もポッと心に灯がともった様な温かな気持ちになりました。
「よかった」って心から思いました。
そして作業終了です。
最後におばあちゃんがペットボトルに入ったお水を一杯ずつみんなに配ってくれました。
断水されてて、自分たちにとっても貴重なお水なのに
「こんなものしか出せなくてごめんなさいね」
と申し訳なさそうに…
みんな胸が熱くなりました。
そしておじいちゃん。
最初から最後まで怖いイメージしかなかったのに、最後に泣きながらお礼を言って来ました。
きっとおじいちゃんにも色々な想いがあるんだと思います。
推測して色々言うのは簡単だし、だけど聞くのは難しいし…
私はたまたまおばあちゃんの声が聞けました。
お話が聞けました。
だからちゃんと、みんなに伝えなきゃいけないと思います。
お別れの時、おじいちゃんもおばあちゃんも泣きながら見送ってくれました。
「ありがとう、ありがとう」って。
私は最後におばあちゃんの手を握って言いました。
「次にまた津波が来ても、また泥かきにくるから心配しないでね。何度でも何度でも来るからね。」
私の精一杯の「だから頑張って生きてね!!」というメッセージでした。
「頑張って」なんて簡単に言えませんでした。
だってすでにみんな必死で頑張ってるんです。
精神状態ギリギリなんです。
頑張れ、負けるな、なんて簡単に言える言葉じゃなかったんです。
帰り道、みんなで
「綺麗にできて本当によかったね」と
「また来たいね」と
話しながら帰りました。
泥かき、本当に大変な作業でした。
だけど、本当にやってよかった。
そんな風に思えた優しい老夫婦のおうちでした。
*********
終わり風味をかもちだしていますけど、
まだまだですからw
皆さん、元気に次にいきましょー!!笑
石巻ダッシュ隊員の日記から6
なんだか寝むさを通り越して目が冴えて来ました!
この勢いで最後まで書いてしまいたいですね!!
まだ日程的には半分しか終わってないんですがw
宮城県石巻市へダッシュ!!★GO★
では5も元気よく頑張ってGO〜!
なんちって☆
********
泥かきを終えたバスでの帰り道で銀ちゃんが突然言いました。
「運転手さーん、女の子がお菓子買いたいってうるさいから、帰りにコンビニ寄ってくださーい!笑」
そんなこと言ってませーん!笑
お酒買いたいだけでしょー!!笑
ということで、心優しい運転手さんは帰りにコンビニに寄ってくれました。
私たちが活動拠点としていた場所は被災地からだいぶ遠かったのでコンビニは機能していたのです。
銀ちゃんは、私たちのせいにしたからと、本当にお菓子をたくさん買ってくれました。
(私が太って帰って来た理由のひとつは銀ちゃんだと思います!笑)
銀ちゃんは普段はトラックの運ちゃんをしていて、土日は肉巻きおにぎりを屋台でやってる強面の優しくて面白くて強くて人情に厚いおいちゃんです。
帰って炊き出し班が用意してくれていた卵丼と御味噌汁を美味しく頂いて、外のテントで女子会してました。
まるちゃんやたんちゃんに今日の出来事を話していたら、おなじ家で活動したトッピーや銀ちゃんや伸さんもやってきて、みんなで今日あったことをしんみり語り合いました。
伸さんは「今日飲んだ水は一生忘れない」って言ってました。
そしてやっぱり最後に行き着くのは
「また来ようね」
って気持ち。
銀ちゃんが言ってました。
「ボランティアは最高のナルシストだ」って。
私はその言葉が、最高にしっくりきました。
「なぜボランティアに来たかったのか」の答えがちょっぴり見えた気がしました。
その日はたまさんの計らいで、お風呂に入れることになりました。
一日中砂吹雪の中作業してたので、耳の中までじょりじょり。
助かりました。
ゴルフ場の近くに温泉があり、そこの温泉は8〜9時の間はボランティアの方が入っていい時間と決められていました。
この一時間しかない時間に、ボランティアの人が集中するわけですから、まぁすごい人なわけですよ。
洗い場に列ができ、戦争のようにバタバタとお風呂につかる暇なく出てくるのです。
お風呂には外国の人も団体できました。
恰好から推測するに、この人たちもボランティアでこの地を訪れたのでしょう。
本当にありがたいことです。
留学生たちが結して来てくれたのか、それともわざわざ海外から飛んできてくれたのかは定かではありません。
だけど、考えてみてください。
スマトラで地震が起きた時、テレビの前で「うわー大変だー」とは思ったけど、「助けに行かなくちゃ!」とは思えませんでした。
そんな感じですよね?
なのに、彼らは泥だらけで銭湯にやってきて、イモ洗い状態のお風呂にも黙って並んでるんです。
本当に本当に頭の下がる思いでした。
お風呂からあがってバスに戻るとそこにはスッキリしたみんなの顔。
5日間お風呂に入れるなんて思ってなかったから、最高のサプライズでした。
「お風呂に入ることが、こんなに安心感やリラックス感与えてくれるなんてね」
と話している人もいました。
そうやってみんなの帰りを待っていたのですが、いつまでも帰ってこない人がいました。
天野っちです。笑
彼は行きのバスからもう酔っ払ってあんまし記憶ない
テンション高くてムードメーカーな広島から来た徳島県民。笑
この旅では伝説を残しまくった男です。
その伝説の一つにこの「お風呂のカギ失くすの巻」があります。
長くなるのでこの話は割愛w
とりあえずずいぶんと彼を待った後、みんなで笑い話にしながらテントまで戻ってきました。
テントでは酒盛りが始まり、私も混ぜてもらいました。
みんなでお酒片手にいろんな話をしました。
それは本当に楽しい時間で、本当に充実してて、この人たちに出会えてよかったーって思える温かい時間でした。
そして寝る前に、自分のテントに戻って考えました。
被災地まで来て酒盛りして騒ぐこと。
これってどうなんだろう。
不謹慎なことじゃないのか。
自粛すべきじゃないのか。
もちろん、そこが被災地の中で、近くに被災者が居るなら、絶対にすべきじゃないと思うんです。
だけど、森の中で、誰の邪魔をすることもなく、その日の仕事疲れを労いながら新しくできた仲間と杯を交わすこと。
そんなに悪い事じゃないんじゃないかって、
むしろ今日この酒盛りがなかったら、きっと被災者の話聞いて「ずーん」てなってたんじゃないかって思うんです。
だから私はそうやってメリハリつけて自分たちを盛り上げてくれるお酒好きの仲間たちに本当に感謝してるんです。
これには賛否両論あるだろうなって思います。
客観的に見たら「何しに行ったの」って思うことかもしれません。
私も正しい答えはわかりません。
だけど、私自信がその明るさと雰囲気に救われたの事実。
そしてその楽しさの油に、お酒があったのも事実。
だから私は、感謝してます。
だから私は、ずっと凹むことなく楽しくボランティアができたと思います。
そんなことを考えながら寝た夜でした。
************
さて次はいよいよボランティア最終日ですね〜
まあ日記としてはまだまだな気がしますが…笑
とりあえず今日は寝ます!笑
長い長い日記に付き合ってくれてありがとうございます。
そんな正面から受け止めてくれるあなたが好きよ☆笑
ということで、とりあえずおやすみなさい!!
5までついてきてくれた人が少なくても(現時点で)45人はいるみたいで嬉しいです!!
みんな読んでくれありがとう><
今日も張りきって続きを書くよ!
**********
ボランティア最終日、じゃんけんで負けたりこ、たんちゃんは炊き出し班に任命されました。
正直、東北まで来てなんで炊き出ししてんだ私ー!!!
うがぁぁぁあ!!!悔しい!!
って気持ちでいっぱいでした。
だけど、たんちゃんと二人で、切り替えよう!って決めて朝から働きました。
炊き出し班とは、このダッシュ隊45人分のその日のご飯の管理をする班のことです。
被災者の方々への炊き出しではありません。
朝からご飯をみんなによそって、お昼ごはんを詰めて、みんなに渡しました。
そして全員整列。
ボランティア最後の朝です。
みんな顔が引き締まります。
班長さんにひまわりの種が配られました。
被災地をひまわりでいっぱいにしよう運動のためです。
この日はめ組JAPAN代表のてんつくマンが湊小学校にやってくるのです!
そんなてんつくマンが考案した「ひまわりの種を埋めよう運動」を推進すべく、みんな種を受け取りバスへ。
私、たまさん、たんちゃん、そしてけんちゃんが炊き出し班として残り、みんなに手を振りました。
みんなが行ってしまった後にやっと私たちは朝ごはん。
のんびりと食べながら
「なぜ石巻ダッシュに来たのか」
一人ずつが話しました。
たんちゃんは今、病院の事務で働いている感動屋で純粋で真っ直ぐでおしゃべりなかわいい人。
そんなたんちゃん、この石巻ダッシュ!を見つける前から東北に行きたくて行きたくてしょうがなかったようです。
その気持ちが抑えられず、ついに辞表を出し、東北に向かう決意を。
その一時間後にてんつくマンからのメールで石巻ダッシュ!!のことを知り、慌てて上司に連絡。笑
辞表とりあえずお預けにしてやってきたようです。
すごい覚悟だなぁ〜。と純粋に尊敬しました。
けんちゃんは一個年下の三重からチャリで来たワイルドな料理人ボーイ。
けんちゃんは三重から冬也くんの家(廃材天国)を目指して来て滞在し、そこでたまたまチラシを見て参加したそうだ。
チャリの目的地は屋久島らしい。笑
この冬也くんというのも今回の参加者の一人なんだけど、おうちがヤバイ素敵らしい。
このお話もまた後ほど。
ご飯後は三人で少し上ったところまであがって食器洗いや水汲み。
近くで高橋歩さんの団体も泊っていると聞いていたのでキョロキョロしましたが、見つけることはできませんでした。
そこは芝生が本当に美しくて、桜の花びらがハラハラ舞っていて、そんな中を子供連れの親が一緒にはしゃいで遊んでいて。
普段普通に見る光景なのに、まるで最上の幸せのように見えました。
お皿洗いから帰ったら早速夕飯の準備開始です。
最初は炊き出し班になったこと、とても悔しかったけど、
こういう人がいるから成り立ってること。
今経験しておくことが、絶対何かの役に立つということ。
理解すると、楽しくなってきました。
晩御飯はカレーです。
残った食材を全部入れて具だくさんカレーにします。
けんちゃんは割烹料理の板前さんの元2年働いていた経験を生かし、サクサク作業をしてくれます。
カレーにはだいずの肉、という初めて見た物をお肉の代わりに入れました。
私は前日の疲れからか、これを千切りながら爆睡してしまったんですが、優しいみんなは起きるまでそっとしといてくれました。笑
カレーの隠し味はお味噌です。
カレーには体を冷やす作用があるようで、これを中和させてくれるのがお味噌だそうです。
たまさんのワンポイントアドバイスが光ります。
一通り作業が終わりいよいよ完成です。
そしてたまさんの計らいで、2時にバスに乗って、みんなの下に行けることになりました。
今日は湊小学校でてんつくマンのライブがあるからです。
たまさんには本当に本当に感謝です。
バスに揺られて一時間半、みんなと合流しました。
今日は四つに分かれて、お寺、お寺、個人宅、アパートで泥かきをしたそうです。
一つ一つのグループで、いろんな経験したんだろうなぁってやっぱりちょっとうらやましくなりました。笑
うらやましいついでに吸収しようと、いろんな人に話を聞きまくりました。
今日は日中に虹が出たそうです。
だけどその虹は変わっていて、みんなは地震雲だと思って不気味に思い、不安をあおられたと言ってました。
今日のお宅では避難所生活している人もいるのに、おにぎりや、ラーメン、カレーパンなどを振舞ってくださったところもあるようで、皆大層ありがたがっていました。
代わりに自分たちが持っていった玄米ごはんをあげて、喜んでもらった人もいるみたいです。
なっちの行ったとこでは、床板をはいで男性陣は床下にもぐりこみ、ヘドロをかき出すという過酷な労働をしたようで、なかなか充実した一日になったのが伺えます。
アパート組もハードだったようで、ラグビー男子がブルドーザーのように働いた、と褒め合っていました。笑
今日もダッシュ隊員は大活躍だったようですね。
みんなで湊小学校に向かうと、そこではもうライブが始まっていました。
ゴスペルの歌が楽しげに歌われているのを聞きながら、被災者の方が学校の窓から造花や懐中電灯を振ってノッていました。
私たちも負けじと加わり、盛り上がります。
ライブが終わった時、前に座っていたおばあちゃんが言ってました。
「歌の力ってすごいですねぇ。これでしばらく頑張れます。」と。
なんだか印象的な言葉でした。
その後校庭でたくさんの人と一緒にひまわりの種を植えました。
夏にはこの石巻を色づかせてくれますように。
ひまわりが咲くころには、少しでも石巻の人たちが明るくなってますように。
って、たくさんたくさん願いをかけて。
放射能だってきっと吸ってくれるよ!
そして帰りのバス。
もう自然とコンビニに寄ってくれた運転手さん。
素敵すぎます。
しかもコンビニの前にある酒屋さん。
ナイスチョイスです。笑
みんなバスに戻って即効一缶開けていました。
今日はよっぽどハードだったようです。
私となっちはまたまたちゃっかりアイスやらお菓子やらを買ってもらいニコニコ。
本当に優しいおじさま達に感謝です。笑
帰宅後はダッシュで夕飯の準備です。
カレーやはり多かったです。
みんなに吐き気を催させるほど食べてもらったのに、全然なくなりませんでした。笑
朝ごはん行きですね。
夕食後は宴会。
そしてその宴会の中、全員一人ひとりがこのボランティアを通しての感想を言うことになりました。
みんなが様々な気持ちでボランティアに参加したんだってことを初めて知りました。
だけど、理由が何でも、軽い気持ちで来ても、やっぱり来れば全員「本気」で働きます。
だから、やっぱり「来た」ことに意味があるって思います。
理由なんてなんでもいいんです。
「見てみたかった」「自分のため」「今こなきゃ死ぬ時後悔する気がしたから」
バラバラでいいんです。理由なんか。
来ればやるんですもの。
やれば熱い気持ちになるんですもの。
45名みんなが共通で言ったことがあります。
「また絶対に来たい」
本当に心が熱くなりました。
泣きそうになりました。
泣いてる人もいました。
みんなに会えて本当によかった。
来てよかった。
東北にボランティアへ行くってなんだか暗い気持ちになりそうなのに、私はこの45人の素晴らしい仲間のおかげでずっとワクワクしてて、ずっと楽しくて、本当に充実していました。
ありがとうの気持ちでいっぱいです。
そんな温かな告白大会が終わってからは再び宴会。
色々な人といろんな話をしました。
一人ひとりに歩んできた道があって、聞くたびワクワクします。
そんな宴会最中にてんつくマンがやってきました。
ここからてんつくマンの熱いトークが始まります。
その話は本当に強く強く、私のハートを震わせました。
その話はまた次へ。
***********
あとふたつくらいで終わるかな〜と思います。
最後まで貴重な話が続きます。
読んでくれるとうれしいです^^
石巻ダッシュ隊員の日記から7
ちょっと開いてしまって申し訳ないです><
続きを書きましょう!!
**********
テントにやってきたてんつくマン。
多くの歓声に迎えられました。
最終日に顔出してくれるなんて、本当に粋な男ですね!
そんなてんつくマンは陽気に挨拶をした後に、石巻の現状、自分のきっかけ、日本のこと、そしてこれからのことを熱を帯びた声で、熱く熱く語ってくれました。
てんつくマン。
ここに来る前は、名前は聞いたことあったけど、そんなに詳しくは知らない人でした。
元山崎邦正の相方だったてんつくマンが、路上で詩人としてデビューし、その後は映画の製作にも力を入れ「MAKE THE HEAVEN」というNGOを立ち上げ、環境問題や海外支援を行っていることを知ったのも、石巻に来て人づてに聞いてから。
全然知らなかったけど、会った瞬間思いました。
この人えっらいエネルギー持っとる人やわ〜って。
そんなてんつくマンは石巻で聞いたいろんな話をしてくれました。
皆さんが普段見ているニュース。
あれ、嘘ではないと思います。
だけど、すごく断片的で、一方的で、演出されたようなものだと思ったことはありませんか?!
私は石巻に来てそれをますます感じました。
ここに来る前にニュースは言っていました。
石巻市は水も電気もほぼ回復しております。
「ほぼ」
これってすごく曖昧な言葉ですよね。
確かに市全体で見たら「ほぼ」なのかもしれません。
だけどエリアを細かくして見た時、まだ水も電気も来てない地域があります。
それが津波の被害をひどく受けてしまった地域なら??
それは「ほぼ」で片づけられてしまうのはあんまりです。
一番来てほしいところに来てない。
不安な想いをしている人たちがいる。
テレビを見ている人に、
その「ほぼ」から外れた人たちを想うことはなかなか難しいです。
テレビは言います。
行政が機能していないからボランティアの受け入れも限界がある。
被災地の復興も遅れている。
そんなこと聞いたら
「いったい何してるんだ!!しっかりしろ市の行政!!」
って思いますよね??
だけどその理由にこんな話があったら??
石巻市は地震の際に、津波の警告塔が倒れて使えなくなってしまいました。
だけど、市の職員たちは津波が来ることが分かっています。
住民に知らせなきゃ!!
職員たちはもう二度と戻れないかもしれないと予感しながらも、町へ飛び出して行きました。
「津波が来るぞー!!」
住民に知らせるために。
そして多くの職員が帰らぬ人となりました。
自分の命をかけて住民を避難させようとした人たちが市を支えていたのです。
そんな人たちが大勢いなくなり、機能しなくなった行政。
それなら責めるべきは県や国なのでは?!
市が人手不足なら県が、県が補えないなら国が。
それがあるべき国の姿ですよね??
だけど単に市の行政が動かないから、と報道されると、自然と負の気持ちが市の職員へ向くのは当たり前ですよね。
私たちの感情や思いこみは、ほぼメディアに作り上げられているんじゃないかと怖くなります。
毎日のように報道される被災地の情報。
何がその話の裏にあるのか、真実はどうなのか、それは本当に現場に行かなきゃわからないものばかりです。
だけど、現場に入るのは報道陣だけではありません。
ボランティア然り、NGO然り、自衛隊然り…
そんな人たちが書くブログや日記を読むだけでも違った角度で物事見えるかもしれません。
大切なのは自分がもっと主体的になることだと痛感した石巻でした。
少し話が脱線しましたが、てんつくマン、希望のある話もいっぱいしてくれましたよ。
ある女性のお話。
Aさんは5カ月になる赤ちゃんのお母さんです。
夫とおばあちゃんと赤ちゃんと4人で暮らしていました。
地震のあった日、Aさんだけが町に買い物に出ていました。
急いで自宅に戻ろうとするも、渋滞にはばまれて帰れません。
やっと家にもどれた時には、一階で夫とおばあちゃんと、おばあちゃんに抱きしめられた赤ちゃんが亡くなっていました。
けど、Aさんは言いました。
「この子は最後まで寂しくなかったと思います。ずっとおばあちゃんが抱きしめてくれていたんだから」って。
どんなに深い悲しみの中でも、そうやって希望を見出して生きているAさん。
本当は辛くてしんどいだろうに、そう言えるAさんは、これからきっと強く生きていけるんじゃないかな。
そしてある農家のお話。
津波の被害でみんな塩害を起こしてダメになってしまった田んぼ。
周りが落胆しあきらめる中、希望に燃える人もいます。
Bさんは田んぼに水を入れて塩抜きをしたいと何度も訴えましたが、今年は見送りだと決定したの一点張りにはじかれ、一人300万かけて井戸を掘り、田んぼを復活させるべく奮闘を始めます。
「今やらなくていつやるんだ!!」
これで成功すれば世界中の塩害を受けてるところに希望ができるぞ!!
塩害でも稲を育ててみせる。
今こそ実験の時だ。
そう言って戦ってる農家があります。
本当にかっこいいです!
お米ができた暁には是非購入したいです!!
そうやって暗闇の中にも光を見つけて、必死に、だけど生き生きと生きている人がいるんだって、てんつくマンが話してくれました。
ある人がてんつくマンに聞きました。
「どうしてそんなに自分を犠牲にして活動できるんですか?」
すると彼は渋谷の路上で詩を書いてた時代の話からポツリポツリとしてくれました。
ある時いつものように路上に座っていると、おじいさんがジッとこっちを見ていたそうです。
しばらくすると近くに寄ってきて、自分の戦争時の話を始めました。
「自分は森の中から敵の飛行機を撃ち落とすのが任務でした。
何機も撃ち落とし、心で歓喜しながら陣地へ戻ろうと歩いていると、自分の撃ち落とした飛行機を見つけました。
そこには死んだ兵士と窓に張られた家族の写真。
戦争への価値観が変わった瞬間でした。
だけど、日本のためを合言葉に、たくさんの仲間が神風となり戦死し、帰らぬ人となりました。
未来のよき日本を思って。
今渋谷の街を歩けば、空には主張し合う大画面のテレビがいくつもならび、足元にはたくさんのゴミ…
私たちは、こんな日本を作るために戦ったんじゃないんです。
仲間たちは、こんな日本を願って死んでいったわけじゃないんです。」
とてんつくマンに訴えてきたそうです。
そこから立ち上がったてんつくマン。
よい日本を子供たちに残そう!!とNGOを立ち上げ世界にも出て行き、様々な活動を始めました。
自分は自分自身を犠牲にして活動しているわけではない。
自分が残したい日本を作るため、だから今動くんだ。
本当にビジョンのある人で、聞いてて久しぶりに心が震えました。
「こんな日本をつくりたいんだ」
と声を大にして動いている日本人。
まだここにいるんだ。
そう思うとなんだか嬉しくなりました。
一時間くらいの短い間だったんですが、この人に会えたこと、なんだかちょっと変わりそうな予感です。
最後に背中にサインをもらいました。
「動けば変わるbyてんつくマン」
この言葉、去年私が散々言ってたやつです。
なんか本気でワクワクしました。笑
話がちぐはぐで申し訳ないですが、とにかく、彼のブログやメメルマガ登録してみてください。
本当にワクワクします!!
全国の大学生に会わせたいです。
そんなてんつくマンに最後はみんなで団子で抱きしめてお別れ。
暗闇の中帰っていったてんつくマンにいつまでも手を振りました。
*************
ちょっと文章力不足にて伝わらない感がいなめん★なな★になってしまったが、許してほしい。
次がラストになるかな〜><
次は気仙沼のことと、NGOのことについて書くよ!
ではまたーー^^
宮城県石巻市へダッシュ!!★はち★
*****
感動的な夜を超えて朝4時。
私たちは起き出しました。
いよいよ今日は地元へ帰ります。
皆眠い目をこすりつつ荷造りを始めます。
朝ごはんのカレーを山ほどお腹に詰め込んで,大量のバナナをおやつに,再びバスへ荷物を積み込みました。
行きよりは幾分スペースのできたバスに乗り,お世話になりっぱなしの運転手さんの運転の元,石巻にお別れです。
この運転手さん二人は,交代で18時間かけて運転してくれるのですが,交代の際寝るところがなく(私たちが定員45人というギリギリまで椅子を占領してしまったため),前の通路で睡眠を取ってました。
それでもいつでも優しく笑顔で接してくれた運転手さんたちに,本当に感謝です。
AM6時過ぎに出発した私たち。
すぐに眠りに落ちてしまいました。
今日は新潟で温泉に入って帰ります。
この温泉。
これも後援隊の方々のおかげで入ることができました。
疲れた体に温泉の温かみ。
本当に癒されます。
ありがとうございます!!
ここで私は,気仙沼の現状やNGO同士の派閥について衝撃的な話を色々と聞くことができました。
私たちダッシュ隊の中にふじこさんという,とっても元気で明るくて芯のある優しい女の人がいました。
ふじこさんは夫と共に参加したのですが,初日の夜からダッシュ隊とは別行動をすることになります。
在学中に学んでいたこともあり,心理学に興味のあったふじこさんは,事前に現地の精神科医と連絡を取り,その助手として活動することになっていたのです。
そんなふじこさんにお風呂の中で色々とお話を聞かせていただきました。
私は心理的療法が必要な被災者の方がたくさんいて,本当に大変だっただろうな,と思っていたのですが,現実は全く違うものでした。
現在,心に病気を患っている人は被災地の方よりボランティアの人の方が多いのだそうです。
長期に渡るボランティア活動をしている人にとって,満足な食事ができず,悲惨な状態が続く現状に,ついていけないのでしょう。
石巻は物資は十分に足りている状態と聞きました。
しかし,それは被災者にとってです。
石巻で長期的にボランティア活動をしていて,満足にご飯を食べられない人はいっぱいいます。
むしろボランティアの方が貧相な食生活を送っているのではないでしょうか(人によると思いますが)。
だからふじこさんのついていたお医者さんは自腹を切ってボランティアたちへ炊き出しをしていたそうです。
このお医者さん,本当に素晴らしい方で「お医者さん」の域を超えたところまで活躍しています。
もちろん医者としてもすごい人だそうで…
ある方はGWを利用して子供を連れてボランティアにやってきました。
そして日中はその子供を預けて,活動に出ます。
ある時子供が頭が痛い,体がだるいと母親に訴え,母親と一緒に先生のところにやってきました。
先生はすぐに子供が仮病をつかっていることを見抜きます。
「患者の背景を見抜く力」
これが先生にはあるのです。
GWという家族にとって楽しい時間を何故か子連れの母親がボランティアに来る。
父親はどうしたのか。
何故母親は子供を連れて来たのか。
瞬時にそれを考えて,その後ろにあるものを読み取って判断するんだそうです。
そしてその子供は他の日に,預けられたところを飛び出し迷子になります。
ふじこさんも一緒に探し,無事見つけたそうです。
ふじこさんは気仙沼にも行きました。
そこは石巻など軽い方だと思わせるほどの情景が待っていたそうです。
「さら地」
そんな言葉がぴったりです。
写真やムービーを見せてもらったんですが,本当に何もありませんでした。
「何故石巻などにボランティアが集中して気仙沼にはあまり行かないのか」の疑問が分かったような気がしました。
泥かきする「家」すらないのです。
そして未だに遺体の収容が行われています。
震災から50日以上たってまだ,そのような状態なのです。
そんな状態ならなおさら,NGO,県,国が協力して活動するべきですよね。
だけど現状は,そんなに簡単にはいかないようです。
多くの発展途上国でNGO同士国同士が縄張り争いをしているのをご存じですか?!
誰が決めたわけでもない境界線を自分たちで勝手に引いて,手だし無用とばかりに威嚇する。
そんな状態がたくさんの発展途上国で起こっています。
それと同じことが,被災地でも起こっているようなのです。
最初に入ったNGOがそこを仕切ります。
他のNGOさん手出し無用です。
入ってくるなら許可を取って下さい。
そんな水面下のいがみ合いが実際に起こっています。
同じ日本国内で。
それだけじゃなく,市同士の仲も悪く,石巻と気仙沼でお医者さんが行き来するには許可証が必要になるのです。
信じられますか?!
お医者さんはそんな現地のいがみ合いの仲裁もします。
人から一目置かれているお医者さんだからこそできる仲裁です。
赤十字のお医者さんも自分たちで各避難所を回り,自分たちで医者を派遣しています。
お医者さんがボランティアの面倒も見て,被災者も診て,行政も担って…
どんな状況だ!!って思いました。
でも本当に,そんないざこざしているNGOや行政をまとめて引っ張れる人がいないんです。
いないからっていきなり新しい人を投入したところで,その人に従うかというと,そんなうまくいくわけもなく。
だから一目おかれているお医者さんが出て行くのが一番丸く収まるんですけど,そんなに仕事をたくさんできるわけもなく…
本当に困った問題です。
そんな二重にすさんだ被災地の状態を聞いて,心が苦しくなりました。
だけど,ふじこさんが行かなかったら知れなかったこと。
聞けて本当によかったです。
そしてみんなでSAに寄りつつ,色々食べつつ帰ってきました。
いよいよお別れの時です。
多岐,吹田,徳島…
ひとり,またひとりと去っていきます。
そしてついに高松に到着。
午前二時をまわっていました。
短いようで長かった,長いようで短かった…
そんな不思議な5日間が終わりました。
だけど,これが始まりです。
ここがスタートラインです。
やっと現状を把握できたのです。
ここから何をすべきなのか,どう動くべきなのか。
それが問われてきます。
そして縁あって繋がった45人のダッシュ隊員。
徳島のじゅんさん達!!
8月には阿波踊りに行くからね〜♪
たんちゃん!!
ご飯食べに行こうね〜♪
とっぴー,なっち!!
遊びに行くね★
銀ちゃん!!
肉巻きおにぎり食べに行くよ〜^^
冬也くん!!
廃材天国遊びに行かせてね〜♪
さっちゃん!!
新築楽しみにしてるよ〜★
伸さん!!
もう会いたいよ〜><
たまさん一家!!
絶対に遊びに行きますね*^^*
まだまだ言い足りないけど,気持ち汲んでください!!笑
これが私の石巻ダッシュ5日間の98パーセントです!笑
残りの2パーセントは直接私にきいてください!!笑
最後まで読んでくれて本当にありがとうございました。
え?最後??
実はもう一つ…
次が本当のラストです。
今の状況を聞いて下さい^^
あと一つです!!
よろしくお願いします★*。
岡山県岡山市からダッシュ!!★いち★
石巻から帰って,私は自分なりの答えを出しました。
「何故石巻へボランティアに行ったのか」
それは,私が私であるために必要だったから。です!!
行かなかったらきっと自分が後悔したし,自分を情けないと思ったと思います。
自分のことを好きでいるために行ってきました^^
うん!!銀ちゃんの言うとおり!!
ボランティアって最高のナルシストだね★笑
だけど,自分が満足できて,相手の助けにもなる。
まさにwin winなこの感じ,いいんじゃないですか?!
みんなに「東北に行けー!!!!」って言うつもりはありません。
…なんて物分かりの良いことは言いません!笑
「行ける人は全員行けーーー!!!」
それが私の気持ちです。
前に書いたけど,理由なんてなんでもいいんです。
私に行けって言われて,なんだか行く気になった…
それでも良いんです。
行ったら山のようにやることあるし,山のように現実が待ってます。
それを是非肌に感じて欲しいんです。
で,今回痛感したのは,持続的に支援しなければ復興はありえないということ。
この「持続的」って本当に難しいです。
だってみんな生活があるし,行けて長期休み。
つまり,次ボランティアたちが東北へ集中するのは8月9月の夏休みでしょう。
さて,今やらなきゃ家がダメになってしまう泥かき,6,7月はどうしましょう?!
時間のない社会人。
動けません。
お金のない学生。
動けません。
さて,この両者でより解決が簡単なのは?!
そう,学生ですよね。
特に学生さん。
本当にその目で見て,肌で感じて,耳で聞いてほしいです!!
もし大学がバスを出してくれて,テントも寝袋も提供してくれたら?!
授業を公欠にしてくれたら?!
「それなら行ける」ってか「行きたい」
って人,たくさんいると思うんです。
だからね,私は大学を今動かそうと一生懸命に掛け合っています。
だけど大学,つけもの石のように動きません。
今日も教務の先生に体験談をありったけ話してきました。
話しながら熱を込め過ぎて泣いちゃいました。
先生も動かない大学と私の想いに応えられないもどかしさで涙目でした。
同じ日本が痛い思いをしている時,立ち上がれない大学ってなんなんでしょうか。
本当にもどかしくて辛いです。
でもね,まだまだ先生も私も諦めていません。
次の一手を用意してますからね!!
絶対に何らかの形で動かしてみせる!!
ひとりで動かない漬物石も,みんなで動かせば動くかもしれない!!
これから忙しい時期になってくるけど,
それでも私は自分が見たこと聞いたこと
絶対次に繋げたいし,誰かに繋げたい。
そして夏休までの期間の支援を学生で繋ぎたい。
それが帰ってきた今私にできること★*。
最後まで読んでくれた人,
本当に本当にお疲れさまでした。
読んだ感想,コメントに残してもらえると嬉しいです。
少しでもテレビやニュースだけでは伝わらない何かをつたえられたなら本望です。
そして私から直接話が聞きたい人,
是非聞いて下さい。
話しながら熱くなって泣いてしまう恐れがありますが*笑*
それでもなるべくたくさんの人に聞いてほしいです!!
そしてこのロング日記★
よかったら是非転記・転送して使ってください。
一応「友人の友人まで公開」にしてるんで,日記でリンク貼ってくれるだけでもいいです^^
読んでくれた全ての方に,
そして支えてくれたダッシュ隊員,後援隊の方に
さらに現地でひたすら基盤を作ってくれため組さんとてんつくマンに
ありったけの愛と感謝を込めて…
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